究極のトランキライザー(精神安定剤)は、人とのつながりである。
最近、身近なところで身も凍るような事件が起こる。それらすべてに共通する言葉は恐らく『孤独』あるいは『孤立』だろう。
すでにアメリカでは、孤独が人を凶暴にすることはリサーチでわかっている。アメリカで起こる学校内の銃乱射事件や銃撃事件は、孤立や孤独が絡むことは、専門家の間では常識なのだが・・・
家庭内の教育やしつけ、あるいは学校教育や会社における教育でも、教える内容が大事であることは誰でも知っている。
しかし、もっと大切なのは、どの様に習ったか、あるいはどのように教えられたかである。
”何を教えるか”という内容は、研究者的な感覚であり、教える側の視点が主である。
一方、”どの様に教えるか”という事こそが、本来の教育の部分であり、教育者と名前の付く人にとって、最も困難で悩むところである。学習する側というのは、習う内容よりもさきに、教えている人を見るのである。
最近、公共(この言葉が死語になりつつあるが)の場所で、大声で泣く子供が結構いる。歩道でも駅でもスーパーでも電車の中でもレストランでも、そこまで大声を上げなくても・・・と思うほどだ。振り返ると、なんだ、親はそばにいるんじゃない。で、その親の皆様、保護者の皆様は、どうするのかなと見ていると、何もしない。
語弊が無いように言っておきますが、一応あやしてはいます。『泣きやむように努力』はしていますしご機嫌もとっています。
でもね、子供が泣くときは、子供の言葉で『何かを語っている』のですから、『泣き止ませる』とか、『おりこうさん』などと言ってなだめるのでは、子供の語りを聞いていることにはなりません。
はっきり言って、子供は泣き出す前に自分の要求を出しています。子供の話は、泣き出す前の、この要求を突きつけている時に真剣に聞かないと、子供は納得しません。でも、この要求の段階の子供の話を、”真剣に” 聞いている親御さんって、ほとんど見かけません。流しています。ご自身も忙しいんでしょうね、何かに。
子供の場合、泣き出してから聞いたんでは遅いんです。手遅れです。もう、モンスター化しちゃったら、脳が興奮していますから、目の前を暗くして沈静化を狙うしかありません。
お願い、私の話を聞いて!というサインを見逃さないための、子供との上手なコミュニケーションは、大人同士のコミュニケーションとは異なるんですね。
現在は、自閉症と診断された子供の母親が、教育の仕方や愛情が適切ではないと追及されることはなくなった。
かつて自閉症の子供を持つ母親はアメリカで、”Cold Mother(冷たい母親)”と呼ばれた。現在70歳代以上である。当時の心理学者たちは、母親の養育の仕方に愛情が足りないと指摘したり、母親や子供の生い立ちや性格の問題を調査した。結果として社会的にもひどく追及されたり、コミュニティーでも好奇の目にさらされた。のちに、自閉症は”こころの病”ではなく、脳に何らかの障害があるとみなされて、この母親たちはこの立場から解放されたのだが、現在でもその時の社会的に受けた仕打ちのトラウマに悩まされている人もいるのである。社会的に無責任な好奇の目によって、こころの傷を負ってしまったのだ。
この話を思い出すとき、現在の過剰なまでの”発達障害”という診断と、マスコミの報道、好奇の目とでもいう社会状態がオーバーラップしてしまうのは、私だけであろうか。 先日は、発達障害と診断されたことを悲嘆して、無理心中まであったようである。
そもそも、発達障害は『医療』の領域ではなく、『教育』や『福祉』の領域の課題であると、某国立大学院の医学部教授が述べていた。
その教授によれば、発達障害とは、脳(思考や行動)の傾向性の事であって、医学で”治す”事は出来ないとの事。病気ではないので、 治療薬もないとの事。
実際は医学的にもよくわかっていないのに、能書きだけを知っているプチ専門家もどきの健常者といわれる人々が、当事者を置き去りにまわりで騒いでいるように見える。そっと見守って、時間を与えることはできないのだろうか。
教育現場での許容度が大きければ、『個性的』ですんでいたものが、平均化・標準化の子供を望む教育現場で、標準からはみ出しているかもしれないと恐れるあまり、子供を医療現場に連れてきて、『脳の偏りがある』と診断され『障害』となるのである。なかには、自分のせいではなかったとホッとする親もいるようだ。
”標準的人間”というのは、統計上の話で、実際には”すべての標準を満たす人間”など実在しない。前出の教授によれば、社会に適応している大人の50%~70%は『元』発達障害だそうだ。
だとすれば、『~障害』という名前自体がおかしいような気がする。
どちらにしても、母親、子供、またはその両方がそのターゲットとして見なされてはいまいか?
アメリカのワークショップに行って来ました。4人で、グループワークをして、時間が余ったので、いろいろな話をみんなでしているとき、一人が『ところで、みなさんの臨床における理論モデルは何なの?』と質問してきました。ほらね、やっぱり。
3人は答えられましたが、ひとりははっきりとこう言いました。
『そう、それが私にとって問題なのよ。まだ、これから臨床のトレーニングをするから、決めていないから、わからないのよね。』
臨床家が基礎理論モデルを持たないことは、臨床をするにあったて、『問題』なのです。ちなみに、彼女は、すでに他の博士号を保持し、2つ目の博士号である臨床心理学を勉強している学生さんでした。そして、理論、病理学、倫理等を勉強する最初の3年間は終了しています。本で学んだ様々な理論をどれか選んで、スーパーバイザーについて実習をしていないので『わからない』と答えたのであって、理論を知らないということではありません。
日本は、この理論も3年なんてかけて勉強はしませんね。最悪、自習です。
アメリカでは、この理論の課程を終了して、コンプリヘンシブといわれる中間試験をパスしないと、その先には進めません。学位ももらえません。
2回も挑戦しているなんて、彼女すごいですね。ちなみに、中学生と小学生の子供をもつお母さんでした。すごい…
最近は、自由な発言というものが認められるようになり、また、”自分の意見を述べる”ということも、自然な行為となってきました。
でもね、時々思うんです・・・
”発言の自由”とは、”何を言ってもいい”ということではないよ・・・って
ここでいう”発言”とは本来”意見”であるべきで、自分の”感情”をぶちまけてはいけないのだ。
しばしば、人間というものは、”論理的”という仮面をぶって”感情”を垂れ流して、相手を傷つけることがある。
論理的な発言は、相手に反論の余地や思考する機会を与えるが、感情的な発言は、相手の逃げ場を奪い、時には救いようのない絶望の淵へと相手を追い込んでしまう。
似ているけれど、本当は全く違うんじゃないかな?と思うものを徒然なるままに・・・
頑固と信念
人生の目的や目標と関連のないこだわりを頑固という。
明確な目的や目標をもち、それを実現させるためのこだわりを信念という。
反省と自己否定
反省は自分を成長させるが、自己否定は自分をつぶす。
反省には次のステップがあるが、自己否定は過去に自分を閉じ込める。
安定と固定
安定とは常に動きがあり、バランスをとりながら微妙に変化し続ける姿。
固定とは動かないこと。
同情と共感
同情は相手の状況に自分の感情を投影させる行為。
共感は相手の状況を思いやる行為。
本物と偽物
偽物は目立つ。
本物は目立たず、インパクトも強くなく、強い自己主張もしないし、またそれをする必要もない。
しつけと虐待
しつけはどんなに厳しくとも、最終的には成長と学習を伴い、多少傷つくことはあっても、身体的・精神的に自己が消滅することはない。
虐待は、最終的に成長を伴わず、身体的・精神的に傷ついたままで自己が消滅する。それは躾の行き過ぎではなく、最初から暴力である。
自由と自分勝手
自由の本質とは独創的で自発的・自律的・理性的である。
自分勝手の本質は、思慮・分別の足りない幼稚な感情反応であり、その態度を許してくれる他者の存在を必要とし、依存的である
☆ Somatic Experiencing の詳しい情報が欲しい方、専門家養成コースの初級セッションを受けられたい方(サインを必要とされる方)は、以下のメールアドレスにてご連絡ください。
mftjapans @ gmail.com
☆ 家族療法のカウンセリング
⇒ 新規受け付けは、お問い合わせください。
☆ ひとりで悩まずに!
堂々巡りせず、出口を見つけましょう。(面接相談のページ)