現在は、自閉症と診断された子供の母親が、教育の仕方や愛情が適切ではないと追及されることはなくなった。
かつて自閉症の子供を持つ母親はアメリカで、”Cold Mother(冷たい母親)”と呼ばれた。現在70歳代以上である。当時の心理学者たちは、母親の養育の仕方に愛情が足りないと指摘したり、母親や子供の生い立ちや性格の問題を調査した。結果として社会的にもひどく追及されたり、コミュニティーでも好奇の目にさらされた。のちに、自閉症は”こころの病”ではなく、脳に何らかの障害があるとみなされて、この母親たちはこの立場から解放されたのだが、現在でもその時の社会的に受けた仕打ちのトラウマに悩まされている人もいるのである。社会的に無責任な好奇の目によって、こころの傷を負ってしまったのだ。
この話を思い出すとき、現在の過剰なまでの”発達障害”という診断と、マスコミの報道、好奇の目とでもいう社会状態がオーバーラップしてしまうのは、私だけであろうか。 先日は、発達障害と診断されたことを悲嘆して、無理心中まであったようである。
そもそも、発達障害は『医療』の領域ではなく、『教育』や『福祉』の領域の課題であると、某国立大学院の医学部教授が述べていた。
その教授によれば、発達障害とは、脳(思考や行動)の傾向性の事であって、医学で”治す”事は出来ないとの事。病気ではないので、 治療薬もないとの事。
実際は医学的にもよくわかっていないのに、能書きだけを知っているプチ専門家もどきの健常者といわれる人々が、当事者を置き去りにまわりで騒いでいるように見える。そっと見守って、時間を与えることはできないのだろうか。
教育現場での許容度が大きければ、『個性的』ですんでいたものが、平均化・標準化の子供を望む教育現場で、標準からはみ出しているかもしれないと恐れるあまり、子供を医療現場に連れてきて、『脳の偏りがある』と診断され『障害』となるのである。なかには、自分のせいではなかったとホッとする親もいるようだ。
”標準的人間”というのは、統計上の話で、実際には”すべての標準を満たす人間”など実在しない。前出の教授によれば、社会に適応している大人の50%~70%は『元』発達障害だそうだ。
だとすれば、『~障害』という名前自体がおかしいような気がする。
どちらにしても、母親、子供、またはその両方がそのターゲットとして見なされてはいまいか?
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